Between Kokoku and Advertising

広告とマーケティングの四方山話です

僕は珈琲

片岡義男の新作だ。珈琲にまつわる話をまとめた一冊だ。正確には2冊目になる。それは行きつけの喫茶店の思い出であり、珈琲を挟んで話した人との会話であり、マグカップのデザインについてであり、珈琲を飲むシーンが出てくる映画の話であり、ガテマラ珈琲の話などだ。読んでいると本当に珈琲が飲みたくなってくる。できれば、昔ながらの喫茶店で、注文をとってからじっくりと入れてくれる濃いめの珈琲を、ソーサーとセットになったカップで飲みたい。そう思いながら、この本を最後の部分を、神保町の喫茶店のカウンターで読み終えた。なかなかいい体験だった。

そういえば、以前よりも喫茶店に行くことが少なくなった。それは人に会わなくなったということかもしれない。仕事で会う人とは、先方のオフィスに伺うかリモートで話すようになったからか。それでも、喫茶店で本を読みながら珈琲を飲む、あるいは珈琲を飲みながら本を読むのはとてもいいと改めて思い出させてくれた。こういう時間がなくなると、何かが確実に失われているのだと気がついた。こんどはいつ喫茶店に行こうか。

僕は珈琲

 

誰も戦争を教えてくれなかった

古市憲寿氏の著書である。2013年刊。著者が世界中の戦争博物館を見て回って、その展示から見えてくる各国の戦争に対する考え方を比較して論じている。

著者の一番の関心は、「あの戦争」に対する日本人の態度のこと。あの戦争とは、第二次世界大戦だ、と思っているわたしはすでに、著者の批判の対象となる世代なんだろう。もちろん、戦争体験はないけれど、父親の話や書籍や映画を通じて、必死に学んでいる。その中でも、あの戦争に対する認識は、いろいろなグループによって異なる。そういうものかも知れないが。

しかし、戦争についての「大きな記憶」として共有されているのは、悲惨さであり、それはまるで大きな自然災害で被害を受けたかのように語られることが多く、誰にやられたのかとかそもそもなぜ戦争が起こったのか、という話には進展しないことが多い。映画や文学も、被害者としての祖先たちの姿が描かれていて、その上で戦争はいけないものだという、大きな結論に達している。でも本当にそうなのか。著者は疑問を抱く。

あの戦争の物語は、すでに有効ではないと認識することから考えはじめなければならないのだと著者は論じる。別になかったことにしようというわけじゃない。年齢だけでなく、教育や政治によって、戦争を知らない世代が大半、それが今の世の中なのだ。それに戦争という概念も変わってきている。湾岸戦争がハイテクでテレビゲームのようだと驚いたが、今起こっている侵略はハイテク兵器とサイバー攻撃プロパガンダ、それに昔ながらの略奪が一斉に起こっていて、しかも、悪いことをしているとわかっていても、世界大戦にならないように、他の国は手を出すことはできない。もちろん、侵略者はそれをわかって戦争を始めたのだ。また、パンデミックの中で、戒厳令下のような状況になっている国もあるし、戦時中と同じくらいの死者が増え続けている。戦争とは言えないけれど、これも「戦時」と似ていないだろうか。

戦争は良くないと言っても、では戦争を防ぐにはどうしたらいいのだろうか。侵略された場合、戦争は良くない、と言うしか手はないのだろうか。今の私には即答できない。でも考え続けていくしかない。8月は戦争のことを考えてみようと思って読んだ本だったけれど、もう9月になってしまった。

 

セグメントの切り取り方

現時点でも世界はコロナによって大きな影響を受けている。アメリカで黒人の死亡率が高いことは早くから報じられたが、もちろんそれは人種による特性のようなものでは決してなく、黒人が多く暮らすコミュニティのあり方によるものだった。平均所得が低いことで充分な医療が受けられなかったり、過密状態で生活していること、さらに医師を信頼できなかったりとさまざまな要因がある。扇情的な見出しに踊らされずに、しっかりと事実と因果関係を確かめることが何よりも大切だ。

https://wired.jp/2020/05/11/covid-19-coronavirus-racial-disparities/

高齢者というくくり方

若い世代がマーケティングイデアを考えるときに、「ターゲットは高齢者」というくくり方ですますことがかなりある。どんなイメージなんだろう。60歳は高齢者? 90歳は? みんなお金持ち? みんな孫にやさしい? みんな時間をもてあましてる? 都合のいい言葉になっているような気がします。